コラム:6人の家族写真 | かたやまハートケアクリニック 長崎長与町 イオンタウン長与内の内科・循環器内科・心療内科

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コラム

6人の家族写真

(2017.12.13更新)

僕の実家には、僕が小学校に入学したときの家族写真があります。白黒ですが、珍しく写真館できちんと撮影したもので、両親含め、よそいきのかっこうで写っています。我が家は兄弟3人の5人家族でしたが、その写真には6人が笑顔で写っています。
僕は長崎で生まれましたが、最初に記憶にある住まいは北九州の戸畑です。
2歳から5歳ぐらいまで、伯父の医院を継承する形で父が戸畑に開業しており、その医院の中で暮らしていた思い出が最初の記憶になります。
今、思えばけっこう大きな医院で、入院患者さんもたくさんおられました。
入院患者さんや、住み込みの看護師さんたちスタッフの食事や、事務的な仕事で母は多忙だったようで、僕や3歳上の姉の面倒は、やはり住み込みの家政婦さん(当時お手伝いさんと呼ばれていました)がしてくれていました。
中学を卒業してすぐにうちで働きだしたらしいので、そのころ16歳ぐらいだったんでしょうか。その人の名前がT子さんであり、僕らはT姉ちゃんと呼んで、いつもついて回っていました。

T姉ちゃんは、北関東かどこかの出身で、少しなまりのあるしゃべり方で、ゆっくりと話す人でした。身長は小柄で、赤い丸めがねをかけていて、顔も丸く、体型も丸っぽい人でした。
僕にひらがなの読み書きや、簡単な算数をおしえてくれたのも彼女でした。
外で遊ぶより、よく家の中で絵本を読んでもらった記憶が今も残っています。今思えばそんなに上手に読んでくれたわけではなく、わりとつっかかったり、ひっかかったりしながら読んでくれていたように思います。だから、僕も一緒に文字を追うことができて、文字を読むことだけは当時から今に至るまで割と得意になることができました。
歌が好きで、ラジオで歌謡曲を良く聴いていて、“空に太陽があるかぎり”という歌を覚えて、一小節ずつ僕と交代で順番に大声で歌っていました。
二階のすみの小さい部屋がT姉ちゃんの部屋でしたが、そこに当時のアイドルのポスターが貼ってあり、僕が引っかかって破いてしまったときも、僕にけががないか心配し、破ったことは笑って許してくれるような人でした。

幼稚園の送り迎えもしてくれていました。ある日、いつものように幼稚園に迎えに来てくれて、一緒に家に帰る途中、いつも小さな公園を突っ切って帰っていたのですが、その公園に、大きな包丁を振り回して大声を上げている男がいました。多分、今思うと禁止薬物中毒者だったんじゃないかと思います。僕は当然怖さもわからず、ふらふらと近づいていき、十数メートルの距離で、その男と目が合いました。そのとき少し遅れて後ろからついてきていたT姉ちゃんが、普段からは想像もできないほどのすごい勢いで後ろから僕を抱き上げ、そのまま反転し、全力疾走で公園から逃げ出しました。家の玄関に飛び込むと、僕をおろして抱きしめ、無事でよかったと大声で泣きだしました。驚いて駆けつけた両親に説明もできず、とにかく泣きながら、僕になにもなくてよかったと頭や顔をなでまわしてくれました。

その後5歳ぐらいの時に、父が長崎大学病院に呼び戻され、再び長崎に転居しましたが、このときもうT姉ちゃんはうちにとって欠かせない一員となっており、一緒についてきてくれました。僕が小学校に入学したときの家族写真が、最初に書いた6人で写っている写真です。昔ですので、T姉ちゃんの写真もほとんどなく、この写真は今でも宝物です。

僕が7歳になった頃、T姉ちゃんは地元の方との縁談がまとまり、僕の前からいなくなってしまいました。

T姉ちゃんとの会話は僕が小さかったため、ほとんど覚えていません。ただ、頭をなでられながら、“敏ちゃんは大きゅうなったら、どがんなるとやろうね?お父ちゃんみたいにお医者さんになるとやろうか?そうなったら私が病気になったら治してね。”と言われたのはぼんやりとですが記憶にあります。

その後、僕が中学生になったころ、T姉ちゃんは1回だけ長崎に遊びに来てくれましたが、照れもあったのかほとんど話した記憶がありません。

次に連絡を取ったのは、僕が医学部に入学したときです。医者になるよと手紙に書いたら、すごく喜んで返事をくれました。立派なお医者さんになってくださいと、丁寧語でもらった返事が照れくさく、だけど嬉しかったことを覚えています。

その後、僕は医者になり、2年目の研修医の頃でした。T姉ちゃんから、両親に手紙が届きました。そこには、数年前から頭痛があり、検査してみたら脳腫瘍が判明し、しかもすでに手術は不可能と言われたと書いてありました。
両親から手紙を見せてもらい、すぐに両親と一緒に電話をかけました。
久しぶりに聞くT姉ちゃんの声は少し年をとって、疲れた感じに聞こえました。
両親は長崎大学病院で検査、治療を勧めましたが、御家族と一緒だから地元の病院で大丈夫と丁寧に断られました。
僕は“遠くにいるので何もできずにごめんなさい”と言うと、“敏ちゃんがお医者さんになってくれただけで、どんなに離れていても心強いとよ”って涙声で言ってくれました。

僕は仕事で休みが取れたらお見舞いに行くつもりだったのですが、その間もなく、ほんの数ヶ月後にご主人から訃報が届きました。

僕が医者になることをあんなに喜んでくれたT姉ちゃんでしたが、僕は何の力にもなれませんでした。
この文章のきっかけは、昨日、夢にT姉ちゃんが出てきたからです。
僕は幼稚園ぐらいで、一緒に“空に太陽がある限り”を歌っていました。T姉ちゃんは僕の頭をなでて、“敏ちゃんは大きうなったらどがんなるやろうか、楽しみやねー”って笑っていました。
そこで目が覚めました。
笑っていたはずなのに、枕が涙で濡れていました。
T姉ちゃん、今からも見守っていてください。